カテドラル・オブ・プレイズ〜十条キリスト教会

イースターのご報告
2007年4月8日(日)
1.イースター礼拝のメッセージ     細井 眞 牧師

 ここに書かれている二人の弟子は、落胆、絶望のただ中にありました。イエスこそが4千年も前から預言されていた救い主であると信じて今まで行動を共にして来たのに、こともあろうに十字架につけられて死んでしまった訳ですから、これはただの絶望ではありませんでした。
 そのような中でこの二人はエルサレムとは反対方向のエマオという村に下って行く途中でしたが、復活したイエスが近づいて来て彼らと共に歩かれたことに全く気づきませんでした。イエス・キリストというお方は、「彼らとともに道を歩いておられた」(15節)、「彼らといっしょに泊まるために」(29節)、「彼らとともに食卓に着かれると」(30節)とあるように、常に弟子と共に歩んで下さいます。しかし、エマオの途上にあったこの二人の弟子がそうであったように、我々はそのことに気づきません。なぜでしょうか。
 16節を見ると「しかしふたりの目はさえぎられていて」と書いてありますが、これは不思議な言葉です。イエス・キリストがそこに居ると気づいていないのに、キリストは確かに彼らと語り合っておられるのです。イエス様はよくなさることがあります。それは、明らかにご自身であると示して下さる場合と、気づかせたいと思われる場合の二つです。この聖書の個所では、イエスは彼らに気づかせたかったのです。

 実は、私たちの生活の中でも神は働いておられます。イエスは2000年ちょっと前に地上に来られて実際に弟子たちと共に歩みをされましたが、昇天後は聖霊を遣わすと聖書は語っています。それは、「いつもあなた方と一緒にいるため」なのです。事実、イエス・キリストは肉体の形で地上に来られたので、時間的・空間的な限度がありました。それ故、イエスと同じ性質を持つ聖霊というお方を地上にお遣わしになり、それにより私たちはイエスと共に歩むことが出来るようになったのです。聖霊様は、その存在を私たちに気づいて欲しいと願っておられ、そのための訓練をイエスはここでもしようとしておられます。イエスは「その話は、何のことですか」(17節)、「どんな事ですか」(19節)と尋ねられ、25節あたりからご自分を表し始めるのです。聖書全体から、ご自身について書いてあることを弟子たちに説き明かされ、その後、村に着いて泊まるために家に入って食事をしようとした時に、彼らの目はついに開かれました。(31節)

 神様がイエス・キリストを私たちに遣わされ、イエス・キリストが聖霊を私たちに遣わされたのですが、聖霊様が働き始め、私たちにチャレンジを始めると、私たちにはそれが分かる時がやって来ます。この聖書の個所では、数時間の中でキリストが居られることが明らかになりました。その後イエスは彼らから見えなくなりましたが、弟子たちは「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」(32節)と話合っています。もし「燃えている」というものが私たちの内にあれば、それはイエスが語りかけておられる証拠なのです。

 皆さんはどのような気持ちで教会からお帰りになるでしょうか。「何か温かい感じがするなあ」あるいは「何となく平安な思いを持って帰れるなあ」というふうに思われるでしょうか。もし教会で私たちが安らかな思いを持ったり、温かい心を持ったりするならば、それは主がおられ、神様が働いておられる証拠です。イエスはその証拠を、この二人の弟子たちに、そして私たちに示しておられるのです。

 今日皆さんはどのような心で教会に来られたでしょうか。エマオの途上の二人はとても暗い面持ちで、心をエルサレムに残したままエマオに向かってとぼとぼ歩いていました。しかし、イエス・キリストがそこに伴われました。それによって心に平安が与えられた彼らは、イエスに「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」(29節) と言って、留まるように勧めました。しかし、イエス・キリストであることが分かると、その姿は見えなくなり、「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻って」(33節) 行ったと書いてあります。とぼとぼとエルサレムを後にして下って来た彼らでしたが、もう一度エルサレムに戻るべきだと考え、引き返して上って行ったのです。エルサレムでは別の弟子たちが「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた」(
34節)と語り合っており、彼ら二人も、よみがえったイエスにお会いしたことを証ししました。

 よみがえりは不思議な方法でなされましたが、それは事実であり、その事実が彼らに力を与えたことが分かります。私たちがイエスの死と復活について「それは考えられない」とするならば、そこに力は有りません。しかし私たちが「イエス・キリストはよみがえった」と知るならば、それは私たちの力となるのです。皆さんが今日イエス・キリストにお会いするならば、皆さんは今日平安を与えられ、心に燃えるものが与えられ、変えられるのです。 反対に言うと、あなたが平安と心に燃える経験をしているならば、イエス・キリストにお会いしているということを知って下さい。彼らは道々、イエスの言葉に耳を傾け、聖書の言葉も聴きました。彼らは、話している相手がキリストであると気づかなかったけれども、このお方を自分たちのところに招き(29節)、そのことが、自分たちの目が開かれるきっかけになったのです。

 私たちもこのイエス・キリストを心の中にお迎えする必要があります。もし私たちがイエス・キリストを心に迎え入れるならば、主は私たちのところに来て下さって、私たちの目を開いて下さり、この方が救い主であり、神が私たちを愛して下さることを知るようになるのです。

2.音と映像によるイースターの一日
イースター礼拝 (午前) 愛餐会 (午後)
演奏は、当教会の聖歌隊 "Joy Praise Choir"。
(指揮: 細井純子師)
音楽は、イースター礼拝の中の賛美礼拝より。
(ソングリーダー: 細井純子師)
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イースター礼拝(午前)     愛餐会(午後)
Tips: 当日ご来会下さった方もご自分のホームページにこの日の出来事を掲載して下さいましたのでご紹介させて頂きます。
http://homepage3.nifty.com/poko-a-poko/
(画面トップ、右上から3番目の「ひとりごと」をクリック、4月8日のコメント中、「イースター礼拝」をクリックすると表示されます。)